2018年07月15日

さて、今日は

 土曜日は結局、ブログを書いて寝たりテレビを見たり。午後からテレビを見ることは滅多にない。それだけ疲れていたのか。夕方からは卓球練習をした。しかし、熱中症の手前のような状態になり、早めに休憩を取り首にペットボトル置き体を冷やした。練習時間は2時間だったが、1時間ぐらいしかできなかった。他の人たちはぶっ通しで練習した。

 冷房が効かない体育館で、よく休まないで練習できるな。
 僕にとって、基本的に足りないのは体力だ。情けない。
 他の人たちは、今日ミックスダブスの試合に参加する。

 1週間後、男子・女子ダブルスの試合がある。
 現在の倶楽部に誘われた時、団体戦のみ参加という条件で
 入部した。なので、
 僕は初めて男子ダブルスに参加する。どうなることやら。 

 さて、今日は。
 レポート提出に集中する。

 23:27、レポートを提出。
 これから、サッカーワールドカップの決勝戦を観戦する。

posted by トモ兄 at 10:53| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月14日

金曜日はいつものように映画みて、土曜日は..

 もう貫徹はしないが、昨日は久しぶりに朝方まで仕事をする羽目になった。原因は、ブログを書きすぎた。文字数をカウントすると、たかが800文字程度。数本の仕事が重なっていたので、気分転換するためにブログを書いた。

 ところが、初蝉から、ヘッセや芭蕉につながった。そんなつもりはなかったが、キーワードは、『木下闇』だった。

 まずは、「60歳のファイト」の検索機能を使い『蝉が鳴き出した』で調べた。そこから『木下闇』へ。

 読み始めた「シッダルタ」にも『木下闇』があった。

 また、『木下闇』とは全く違った疑問も思い出し、『郷愁』という小説を拾い読みした。主人公(ヘッセ?)は書店の店員をしていた頃、若い芸術家や学者たちが集まり議論をしていた、サロンにも顔を出していた。その頃に流行っていたのが東洋哲学(仏教の教え)だったらしい。余計な話だが、牧師の家庭に生まれ、神学校に進んだヘッセが、なぜキリストの教えでなく、仏陀の教えの解脱をテーマに小説を書いたのか。サロンに顔を出していたことも、その1つの理由なのだろうか。

 今日の俳句読本の「湯の宿は沢音ばかり木下闇」高橋光江にもつながった。ここでは、『木下闇』を「こしたやみ」を漢字誤変換し「越した病み」と解釈し、隠されたメッセージがあるではないかと、面白がった。ただし、ぼくはまた違った読み方をしている。

 それから、芭蕉の俳句を思い出した。参考にしたのは、川本皓嗣さんの芭蕉の名句を読むの、基底部の矛盾と--逆説(パラドックス)で、「須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇」の紹介がある。

 そんなことをしていたら、朝が近づいた。
 不味い、気分転換になったのか分からないが、
 とにかく仕事をした。

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posted by トモ兄 at 13:12| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

(7/12、今朝)蝉が鳴き出した

 毎年、このタイトルで書き出す。このブログでは、毎年セミが鳴きはじめた日をアップする。

 昨年は、8月5日に蝉が鳴き出した。
 今年は、7月の12日に鳴き出した。昨年よりも24日早い。
 ちなみに、昨年の梅雨明けは7月6日ごろ。
      今年の梅雨明けは6月29日ごろで、7日早い

 西側の窓を開けると、手が届くようなところに落葉樹が大きく育っていて、夏になると葉が茂り、自然なブラインド効果によって西日を遮り、心地よい木陰をつくってくれる。また、この木は毎年高くなっていて、日は輝やいているが薄暗く木下闇(こしたやみ)とも言える。
 毎年その幹や枝では、セミたちの大合唱がはじまる。ところが、今年は鳥たちがこの木に立ち寄る、朝のルーティンワークが少なくなったように感じる。

 今日、岩波文庫『シッダルタ』ヘッセ作、手塚富雄訳を読み始めた。第1部、8ページ目に、尊敬する友ロマン・ロランに捧ぐとある。9ページ目の小見出しは、ちちははの家 この頁から本文が始まり、中頃に木下闇があり、ルビが振ってあった。

 “学識深き彼の父の教えに耳を傾けるとき、賢者の談話の席につらなるとき、木下闇(このしたやみ)の影は彼の漆黒の眼に流れ入った。”

 俳句では、木下闇(こしたやみ)と読み、夏の季語。
 
 須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇 芭蕉

 この俳句の解釈は難解だ。誰も吹いていないはずの笛が聞こえてくる。この基底部は明白な論理矛盾、逆説になっていて、一種の真理を言い当てているのだそうだ。干渉部の須磨寺やが句全体の意義を方向付ける。干渉部は基底部の背景や状況を提示する。では須磨寺とは。平家の貴公子・平敦盛遺愛の青葉の笛(小枝の笛)を収める神戸市須磨区の寺のこと。芭蕉は、寺の木下闇で源平合戦の昔をしのんでいると、誰も吹いていないはずの敦盛の笛の音が、聞こえてくるような気がした。
 中国には、「無音の音を聴く者は聡し」という言葉があるそうだ。

 なぜだか、つい木下闇に反応してしまった。
 僕は、この木下闇を違った読み方をする。

posted by トモ兄 at 00:46| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月12日

最近の朝の出来事

 昨日、目覚ましを7時にセットしていた。今朝は6時半に起きたが、遅く寝ても、最近は5時半に起きたりする。当然、毎日iPhoneの目覚ましをセットするが、5時半にはセットしない。

 なぜ疲れているのに朝早く目覚めるのかは、何となく気付いた。それは、様々な課題に対して寝ている間も考えているようで、漠然としているがそれらしき解答とその方法が出たときに、目覚めるようだ。ただし、明確な根拠はない。

 たとえば、「デジタルサイネージ入門講座」の最終課題でレポートをどんな風に書けばいいのか。簡単に考えると、課題に対して、最寄りの情報を要約をすればいい。それでは、自分自身の理解が深まらない。折角なので何か方法はないか。そこで思い出したのが、とある先生に教わった問題解決の方法の一つで、まずは、視座・視点・視野とうい観点で対象を捉え、基本定義のXYZの公式に当てはめてみる。そこで、広告物の制作者という私の視座で捉えると、必然的に視点・視野も出てくる。つまり、「デジタルサイネージ入門講座」の理解を深めるために、より身近なところで捉え、対象と距離間を詰めることによって、よりリッチなレポートが提出できると思う。

 また、『シッダルタ』についてだが、ここでもとある先生に教わったことを思い出した。本は様々な目的意識で読むことができる。ただし、テーマを決めて読むとより理解度が深まる。
 
 たとえば、以前に『奇跡のリンゴ』読者感想文を書いた。その時のテーマは、木村さんの口癖である「バカになればいい」に着目し焦点を当てて読んだ。この本を夫婦間の愛情物語として捉え読むこともできるが、そんな読み方はしなかった。結果的に、「バカになればいい」の先には、「ひとつのものに狂えば、いつか必ず答えに巡り合うことができる」という素晴らしい言葉に出合えた。

 さて、『シッダルタ』をどう読むか。すでに新潮文庫で読んでいて、あらすじは覚えている。『シッダルタ』は全てを捨て出家し、仏陀の布教活動を追ったが、結局は元の生活にもっどた。しかし、家に戻ることはなかった。それから、様々な人と出会い別れを経験する。また子ももうける。『シッダルタ』は出家して以来、家族と再会することがなかったが、この小説のラストシーンで、唯一幼少の頃の友人と出会う感動的なシーンが用意されている。ここで『シッダルタ』が日常生活で解脱していたことが分かる。

 しかし、この感動的なシーンよりも、川の渡し守りで働いていた時のシーンが最も印象的だった。お客を向こう岸に届け、ひとり戻るときの途中の出来事だ。『シッダルタ』は川面に映った我が姿を何気に眺めた。そこには懐かしい父の姿があった。そして、コミュニケーションが始まる。ここで、『シッダルタ』(と読者)は短い輪廻の世界があることを知ることになる。
 『シッダルタ』にとって最大の悩みは、行方が分からない帰ってこない息子のことだった。ここで描かれているシーンは、不意を突かれて心に痛みを感じる。つまり、『シッダルタ』は過去において、自分自身の両親に同様な行為を行ってしまった。どんなに寂しい思いをさせたことだろう。
 ここで、人生において誰もが経験する繰り返し(短い輪廻)があることを悟る。

 で、どう読みたいか。大袈裟に言うと、時空を超えた懐かしい友人と語るように読んでみたい。そして、最近知ったアドラー心理学の課題の分離の涼しい関係で接したい。そうすると、また違った感想があるかもしれない。
 当初の思っていた読み方とは若干変わった。

 そんな漠然とした問題解決の方法らしきもので、目が覚めた。

 今日、明日はいつものように印刷入稿がある。
 現状のクライアントはとても忙しそうだ。クライアントはすぐに大阪サミットがある。別のクライアントは、やはりすぐにビッグサイトで大がかりなイベントがある。だから、担当者はいつもの週よりもスケジュールが厳しい状況にある。クライアントがどれくらい忙しいか実際には分からないが、ここでも課題の分離で、僕の課題は、今の状況下でいつものように、時間を守り間違いない印刷入稿することだ。

 ということで、今から仕事に集中する。
 ファイト(^_^)/。○
posted by トモ兄 at 10:47| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月11日

お昼に、本が届いた

 岩波文庫『シッダルタ』ヘッセ作、手塚富雄訳の本が届いた。まずは、新潮文庫『シッダルータ』ヘッセ作、高橋 健二訳とのボリュームを比べてみた。

 岩波文庫『シッダルタ』は本文が199頁 
 新潮文庫『シッダルータ』は本文153頁 

 新潮文庫に較べると、岩波文庫の方が1行の文字数が2文字少なく、行数も2行少ないが、本文の頁数が多い。大雑把に計算してみると、本文の文字数は岩波文庫の方が約10,000文字多い。
 訳者によって、こんなにボリュームが違うのだろうか。不思議に思った。

 これから、ゆっくり読んでいこうと思っている。

  
posted by トモ兄 at 23:26| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする