2019年10月31日

10月は、とにかくいろんなことがあった

 カレンダー制作やgaccoや帰崎や団体戦。具体的には書けないが、他にも様々なことが重なった。仕事で忙しいことは年に何回かあるが、それ以外のプライベートで忙しいことはほんと珍しい。

 そして今日は、毎年の内視鏡検査(入院)を予約するため病院に連絡。年内は取れなく来年1月になった。信じられないが年内の土曜日は満員だそうだ。

 さて、11月はどうなることやら。
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2019年10月30日

珍しく霧が発生、これって僕の心象風景(笑)

 今朝6:00に起床、iPhoneで検索サイトをチェックすると、大手流通の人員削減や店舗閉鎖のニュースがあった。僕自身も様々な問題で悩みモヤモヤしている。

 さて起きようかとカーテンを開けてビックリ。こんな霧は珍しい。ちょっと強引だが、これってもしかすると僕の心象風景(笑)思わず、iPhoneを持って近くの公園へ行き映したのがこの写真。


霧.JPG

 
 (五里)霧中を早く夢中に転換しないと。

 あとは実行するのみだが、いまは足踏み状態。しかも以前と違って明るい悩みが多く、そんな悩みだったらやらない手はない。例えば、中国人プロコーチの卓球教室。他の問題も同様で、解決するためには、自分自身の効率的なリソースの振り分けに思えてきた。つまりアイディアがあり、あとは実行すること。だから結論は、毎日書いている1日のスケジュール表の中に答えがあり、僕の持ち時間の使い方に掛かっている。
 
 ブログにもアップしてるが、1日のスケジュール表は何回も作り直し改善もした。また最近は使い方にも工夫している。

 話は飛躍するが、ポチが裏山で「ここ掘れワンワン!」と吠え、掘ってみると小判がザックザック出てきた。もしかすると、裏山とは僕のスケジュール表であり、持ち時間で宝ものを採掘できるかもしれない。実行するもしないも僕次第。

 愛犬アルペが「ここ掘れワンワン!」と吠えた。
 汗をかきながら集中し、僕の持ち時間を使う。
 夢中になれることがあることは、いいことだ。
 
 すでに、霧は晴れていた。

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2019年10月29日

今日はいつもの特訓日

 今日のスケジュールは、前日の仕事が終了して書く。
その1日のスケジュールを見ると、まず新規の地図を描く。午前中に歯医者。それから、最終の修正があり印刷入稿(下版)。また、金曜日の印刷入稿の準備をする。

 そして、最も不得意な事務仕事が待っている。見積もりと請求書を準備し、見積もりはメールする。消費税を間違えないように。ほぼ仕事はレギュラーなので、コピペで済むことがあるが、これが注意しないと間違いの元になる。

 半分冗談だが半分本当で、請求書と打つとたまに請求症となることがある。未だにキーボードアレルギーがあり原因だ。しかし、それだけではないような気がする。以前に較べると遙かに事務仕事は楽になった。請求額は多くなったり、少なくなったり、少なくなったり。超零細な経済活動でも結構プレッシャーになる。バガみたいだが、1人で勝手にプレッシャーを掛けている。

 食後落ち着いた時間に、仕事ではないがある交渉ごとのために、資料収集し作戦を練る。これができれば、先日の優勝したような気分になれる。これで3回目の挑戦となる。ほんと何とかしたい。

 とにかく2、3日は忙しい。特に月末の週を特訓と呼ぶ。
 なので、ヘボコーチは難しそうだ。
 お休みすることに_(._.)_

ラベル:特訓
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2019年10月28日

今日のスケジュールは、ゆっくりと...

 今日はバスキア展(森アーツセンターギャラリー[六本木ヒルズ森タワー52階])へ行こうと思っていた。ところがそれどころの騒ぎでなかった。熱は出なかったが体が悲鳴をあげた。

 朝からお風呂に温めのお湯を張り、プカーンっと浮いていた。イメージ的には無重力状態になり、体の重みを解放し、少しでも筋肉に負荷を掛けないようにした(そう思った)。また、血の巡りも活発になり、疲れや痛みが早く取れるのか。

 今日は朝からさっそく、「やったー 優勝(^_^)/」をブログにアップした。それから、すぐに仕事の連絡があり、修正をメール。

 またさっそく、ガンちゃんから中国人プロコーチの練習教室に、体験入学のようなことをしないかと誘いの連絡が入った。今日は身体の調子がこんななので、こちらから必ず連絡することを約束。

 ヘボコーチの時は割り切って自分の練習はしない。つまり、相手の能力アップが目的で、自分の練習をやってしまうとどっちも効果が上がらないし身体も持たない。だから、中国人プロコーチの練習教室に興味を持った。

 しかし大失敗の経験がある。その時の失敗が肩の痛みの原因になっていて、未だに尾を引いている。
 その時の練習は基礎体力や筋力がないまま、厳しい球出しの練習をさせて貰った。そのたった1回の練習で、信じられないことが身体に起こった。

 あまりにもキツい練習だったので途中で中止。先にシャワーを浴び飲み会をするために休憩し待っていると、急に大きな蚊が目に飛び込んで来た。思わず手で払った。蚊が飛ぶ季節でなはない。若干はあったが、最悪の飛蚊症を発症。驚いて、眼科にすぐ通った。そして、五十肩の症状も発症し整形外科にも。そんな経験があり、また急に厳しい練習をすると、間違いなく身体が壊れる。

 中国人プロコーチの練習教室に行くまでに、少しでも基礎体力をアップさせようと考えている。それからでも遅くない。

 明日からまた特訓が始まる。
 昨日の歩数は約20,000歩。今日は何とたったの379歩。
 ゆっくりのんびりできた。

 今日、バスキア展に行けなくて大正解だった。
 バスキア展の会期は11月17日(日)で、まだ時間はある。
 
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やったー 優勝(^_^)/ 

 ついに団体戦優勝。話はできすぎで、正に他力本願での優勝だった。メンバーはいつもの4人で、在住・在勤が2人、区外が2人。この区外の2人が大活躍した。

 団体戦の面白さは、戦力に偏りがあってもみんなの力を結集することによって、優勝を達成することもある。自力本願で優勝することに越したことはないが、他力本願で優勝できたことは、そんなに恥ずべきことでもない。実は素晴らしいことなのだ。シングルス戦でも団体戦でも優勝したことはあるが、優勝するときはラッキーなことも含め、また違った何かが働くような感じがする。たとえば、チームワークだったりする...

 僕はダブルス1勝、シングルス1勝2敗だった。若干の貢献はできたと思うが、最大の貢献は、結果論だが僕の役目であるオーダーを組むことにあった。つまり、他力本願とは作戦であり、強いメンバーの能力を活かすことにある。また、彼らは期待に応えてくれた。だから、今回の団体戦優勝のヒーローは、区外のHさんとWさんということになる。ほんとに感謝しなければならない。それにしても、久しぶりの優勝は何とも気分がいいことか。 

 さて、ランクは昇級した。来春は4部となる。問題なのはあと数年すると1人を除き70歳の大台に乗る。卓球はどう見ても40歳後半の感じがする。これから健康と筋力をどうやって維持するのか。区外の1人は週に5回練習やコーチをしている。またもう1人は毎週オープン戦などの試合に出場しているそうだ。僕を含め個人事業主で、生き残っているが、同様に最大のピンチを何として解決している真っ只中にある。だから仕事と卓球時間のやりくりにがとても難しい。

 また問題点は、在住・在勤の2人の能力アップにある。それができないと、4部からすすぐに降格してしまう。
 もっとも若いN君は、誰でも知っているネット関連の会社で仕事が忙しくて練習は全くできない状態だ。僕も同年の頃はできなかったので理解出来る。そうなると結局、最大の問題点は「僕」ということになる。

 現状を考えると、まだ卓球をできる状態ではない。だから、ヘボコーチはできても、自分の練習をしたりオープン戦に出場することは考えていない。しかし、いずれ練習を再開しないと、手遅れ感があった。

 これまでに、あと1勝できれば団体戦で優勝できたことが何回もあった。そのたびに負けては、練習しようと考えた。
 今回は今までとちょと違う。他力本願とか何とか言って、仲間にワンラックアップした4部に連れて行ってもらった。
 だから、今度は「僕」なりに応えなければならない。

 具体的には、同じクラブ内の友人に、有名な中国人プロコーチが指導している練習会場を進められた。彼も彼の孫もそこで練習している。肩の調子も回復しつつあるので、一度行ってみようと考えている。

 現状で、できることをやる。

posted by トモ兄 at 10:51| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月27日

今日は、他力本願で優勝できるかも

 昨日は22:00就寝、今朝は7:00起床。今日は秋季団体戦。好材料は睡眠時間がたっぷりなことのみ。卓球練習は、火曜日にヘボコーチをしたのみ(いつものこと)。しかもラバーを貼り替え試合が初打ちになる。膝は昨日の散歩で若干違和感がある。他力本願で、贅沢にも優勝できるかも。(期待と希望)

 さて、どうなることやら。
 だからいつも言っているでしょ、ヘボだって(^_^)/

posted by トモ兄 at 07:36| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月26日

週末は考えごと&実践

 明日はいよいよ待ちに待った、秋季団体戦(ランク戦・入れ替え戦)で、5部脱出を狙う。今回こそチャンスだ!なんの根拠もないが、気持ちだけは負けてられない。また、美味しい飲みニケーションをするためにも。

 そこで、今日はどう過ごそうか。

 いまから、マウンド舎人の手前まで散歩することにした。登ってしまうと、ダメージが残ってしまうので、気分転換するために散歩する。

 それから、ミニミニ週末プロジェクトのことを準備する。これが今の最大の懸案で、もうすでにスタートしている。昨日も書いたが、「いつも、ギリギリセーフ」は、気を抜いてしまうと死活問題までに発展する可能性がある。これは事実なのだ。

 また、大袈裟になってしまった。
 
 まずは散歩しよう。
posted by トモ兄 at 10:26| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月25日

40数年後の早期退職制度で退社を決める

 と言いながら、また長崎の話(友人の話)。この話が面白しろくてメモしたくなった。40数年前の父と子のやりとりで退社ができなくなり、自分自身の意志で退社を決めたのは、その40数年後だった。
 その出来事を本人も楽しそうに話し、僕も笑った(^_^)

 就職試験を受けた2社の結果を待っていて、先に合格通知があった会社に入社を決めた。この会社は誰もが知っているナショナルブランドの会社だ。
 ところが、いまでいうブラック企業どころではなかったらしく、厳しい業務で残業代が全く付かなかった。友人はどうしても納得いかず退社を考えた。

 他社の役職に就いていた父親に相談すると
 「仕事が遅いのだろ」とか、おそらく「辛抱が足りない」
 とか「嘘だろう 信じられないぞ」とか... 

 そういうやり取りが何回もあった。

 結局、友人は父親に
「給料明細書を見せて、父親に身の潔白を訴えた」
 
 父親はそれを見て分かった
 「オレが乗り込んでクレームを付ける」(-.-#)待ってろ! 
 
 友人は父親に
 「それだけは、頼むから止めてくれ」なんとか頑張るから!
 とうとう、その会社を勤め上げ次長職で早期退職制度を
 活用し退社を決めた。

 僕は1カ所の会社で勤め上げた経験はない。仕事と給料の好条件を求めデザイン会社を変わり続け、とうとう独立した。
 
 友人の話は、僕と対極にある。
 現在は幸せそうに見えた。おそらく、1社を勤め上げた人は、様々な苦労があったことは違いない。しかし、ご褒美としての「幸せな結末」という、予定調和で帳尻が合うような感じがする。
 だから、本人も楽しそうに話したし、僕も笑った(^_^)

 僕には、その予定調和がないような気がする。
 いつも、ギリギリセーフのようだ。
 今日、別の人と打ち合わせをすると
 その人は、「アウト」でないからいいじゃない。

 それもそうだな、変に納得してしまった(^_^)/

 読み返しながら、書き足りないと思った。

 付け加えたい
 この出来事は間違いなく
 友人のオヤジさんの「ファインプレー」だった。
 素晴らしすぎ(^_^)♡

posted by トモ兄 at 11:06| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月23日

ヘボ卓球となんちゃって富士講

 昨日はいつものように仕事して、夕方からヘボコーチ&飲みニケーションを行った。少し早めに行ったので、10分ぐらい久しぶりにカット打ちができた。ところが膝がガクガクに。これじゃ来週の試合どころか、怪我する可能性さえある。あと試合まで数日あるので、軽めの負荷を膝に掛けることにした。

 無駄な抵抗かもしれないが、毎日早足で約1時間半の舎人公園散歩。マウンド舎人へ登り、その頂上で富士山を眺めることを、なんちゃって富士講と勝手に呼んでいる。たいしたことはないと思えるかもしれないが、これが結構いい運動になる。
 ほんとバカバカしいかもしれないが、マウンド舎人を富士講の信者が富士山を模して築いた塚と見立てる。またオーバーな話になるが、僕にとって一種の修業の場なのだ。信じる者は救われる。

 こんなに富士山がハッキリ見えたのは初めてだ。
 とてもすがすがしい気持ちになった。
  
1023富士講.jpg


posted by トモ兄 at 15:54| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月22日

耳を傾けてくれた50人を意識して..._2

 果たして、50人はどんな属性があるのだろう。男性・女性?また年齢は?分からないと、どんな風に意識するのか。

 話は9年前に遡る。

 「50歳のアフィリエイト」は、2008年01月05日に始めた。仕事がゼロで、余りあるほどの時間。そこで年末年始に、アフィリエイト本を3冊購入し読んだ。もちろん目的はアフィリエイトブログ。本の内容で共通していることは、まずは記事数を増やし、1日3,000アクセスを目指すこと。ということで、無謀にもまずはアクセス数を目指した。何を書けばいいのかさっぱり分からない。

50歳のブログ_1.jpg

 2010年01年28日のブログ(ブログ開設2年目)
「50歳のブログ」で検索すると、187,000,000件でトップに。思わずその記念に、スクリーンショットでYAHOO!の検索画面を記録。友人に話すと、「売上げは100万ぐらいでしょう」。そんなことはまったくなく、さっぱりだった。当時、記事を増やすことに集中し、アフィリエイトの具体的なやり方は分からなかった。なので当時、2年間で収入は500円ぐらいだったろうか。


 2010年02月22日のブログ
 ([Demographics Prediction(分布予測)]で
  属性を調べる)

 そして、以外なことが分かる。

50歳のブログ_2.jpg

 マイクロソフトのadCenter Labsのサービスで「Demographics Prediction」を試してみました。結果は、以外なものだった。男女比は、ほぼ同比率で男性が58%、女性が42%。ブログの内容的には、ぼく(男性)の視座・視点で書いていたので、男性の方が大半だと思っていた。

 最も意外な結果は、ブログの名称でも分かるように、ターゲットの年齢設定は「50歳代」。しかし、「予測分布」の数字を見ると、最も好意的なのは<18歳。そして最も低かったのが50歳+だった。全く逆の結果がでた。
 これをどう捉えればいいのか、未だに把握できない。

 しかし、ポジティブに考えると、若い人たちに支持されていことは、一つの「明るい材料」になると思うことにした。

 現在、結局は様々なテーマで書いた内容で、アクセス数にどのような変化が現れるかで、耳を傾けてくれた人を意識するしかないと思っている。つまり、アクセス数が増えると、楽しんでくれているのかと。

 それから、新規顧客が獲得でき少しずつ本業が回復し始め、最近では、特訓とか修業とかオーバーなことを書いている。

 9年前の古いデータから話を進めた。現状のブログは日記になっている。9年前と同じ状況ではないが、耳を傾けてくれた50人を意識して書きたいと思っている。

posted by トモ兄 at 15:25| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

耳を傾けてくれた50人を意識して...

 >また、「60歳のファイト」の在り方も考えたい。
 ということで考えている。

 まずはアクセス数の基礎データから。2013年の調査で、ブログの1日平均アクセス数は78%が「50アクセス未満」。アクセス数が500以上あればトップ3%に入るそうだ。僕の今月のアクセス数(seesaaブログのアクセス解析)は、200〜800ぐらい。今月の平均は約300で、トップ6%に入るのだろうか。今度アナリティクスを学習しながら、様々なデータを調べてみようと思っている。おそらく、間違いなくこんなに多くない。

 「60歳のファイト」は、日記で自分のために書いている。これまでにも何回か書いているが、テーマは「サバイバル」で「生き残ること」。ブログは借金返済のための精神安定剤だった。これが本音だ。しかし、いまは少しずつ、ポジティブに考えられるようになってたきた。勿論努力もしたが、ラッキーとしかいいようがないと思っている。

 当初のブログタイトルは「50歳のアフィリエイト」で、
 現在は「60歳のファイト」に変更した。

 「60歳のファイト」で検索すると、約1,000万ページのトップに表示される。「ザ・おやじファイト」が遙かに面白そうだが、

 こんな風に考えるようになった。
 もしも、僕の身勝手な話に、耳を傾けてくれた50人がいたならば、自分のためにだけではなく、少しは彼らを意識して書いてはどうだろう。そんなことを考えるようになった。ブログを書いている人は分かると思うが、嘘でも冗談でも、アクセス数が1,000ページを超えると、驚くとともにとても幸せな気分になる。つまり、実はアクセス数という無言の人たちに支えられていた。

 現在思案中(^_^;)
 いま分かっていることは、そう簡単なことではないことだ。
 さてどうなることやら ファイト(^_^)/

posted by トモ兄 at 22:26| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日からいつもが始まるが...

 実は土・日曜日、原稿やラフ初稿3件のやり取りをしていて、日曜日に修正メール。昨日のまでの担当者から、今日また修正が入るとメールがあった。このスケジュールはいつものことだが、丁寧な連絡がとてもありがたい。

 また、土・日曜日の制作は珍しく、天皇陛下が即位を内外に宣言される「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀」が、今年に限り祝日となるため、その1日分の制作時間が日曜日に充てられた。

 しかし、例年10月後半〜11月中旬まではそんなに忙しくないはずだ。来週、年2回の卓球の団体戦(ランク戦・入れ替え戦)。六本木ヒルズ「バスキア展」。
 
 そして、昨日もアップしたように
 今日から、具体的に「自己を更新」をスタート。

 また、「60歳のファイト」の在り方も考えたい。

posted by トモ兄 at 10:16| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

自己を更新する

 もう今日で長崎の話は最後にしよう。長崎つながりで止めどもなくつながっていく。この辺で断ち切ろう。
 で、なぜかふと思ったことは「自己を更新する」だった。

 久しぶりに、伊東静雄のサイトを覗いた。


 そんなに凝視めるな  伊東静雄

 そんなに凝視めるな わかい友 

 自然が与える暗示は

 いかにそれが光耀にみちてゐようとも

 凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ

 鳥の飛翔の跡を天空にさがすな

 夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな

 手にふるる野花はそれを摘み

 花とみづからをささへつつ歩みを運べ

 問ひはそのままに答えであり

 耐える痛みもすでにひとつの睡眠だ

 風がつたへる白い稜石の反射を わかい友

 そんなに永く凝視めるな

 われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち

 あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ


 
 この詩は何回読んでも難解だ。
 そこで、簡単な作文をしてみる。

 そんなに凝視めるな わかい友
 われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
 あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

 だったら、分かるような気がする。
 人生の味わいは、多様と変化にこそ醍醐味がある。
 そんな感じだろうか。

 しかし、伊東静雄という近づき難い深い井戸に
 こんこんと湧く冷たくて新鮮な水脈には
 まだまだ理解できない、深い味わいがありそうだ。

 帰崎し、お墓を2カ所お参りした。父と母のことを想った。
 そこで、珍しく死生観のことを考えた。

 もしかすると、そんなに凝視めるなの詩は、伊東静雄の死生観を詠ったものなのか。人は長くも短くも一所懸命生きたという。ところが自分のこととなると長く生きたいと願うが、伊東静雄という近づき難い深い井戸の底流には、運命への諦観と憂鬱が感じ取られる。詩人がそういう世界に独り住み、人生の儚さを自覚したときに、研ぎ澄まされた美しい哀歌が生まれるのか。

 さて、ぼくときたらまだまだなのだ。
 つまり、楽観なのだ。
 だから、自己を更新する。

posted by トモ兄 at 18:47| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月19日

ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_8(おわりに)

 長崎の家にも寄った。そこでだったか、義姉と話し驚いたことがあった。義姉の実家は着物の染め物屋やだと聞いていた。あっても何の不思議もないが、ピントときていなかった。

 丸山で料亭 花月や青柳の側まで行ったことを話すと、そのアタリの話に詳しかった。義姉はすでにリタイアしているが、長崎市役所の秘書課だったので、そのアタリの事情に詳しいのか。ところが、実家の着物の染め物屋は、料亭 青柳の着物の仕事を一手に引き受けていたらしい。それ以上は聞かなかったが、面白い話があるような気がした。またの機会に。

 卓球部の同窓会での話で、幹事をしてくれた同窓生は、まだリタイアしていないが、週5日の練習には驚く。九州でランキングを狙い、ラージのダブルスでは年齢別で優勝している。まだまだ現在進行形のようだ。頑張って!

 別の同窓生は中学校でコーチをしている。学生時代最も卓球のセンスがよかった。彼はもちろんペンホルダーだったが、今はシェークハンドに持ち換え、ラバーもいろいろ使い分けていろらしい。僕と違って本物のコーチだ。僕がヘボコーチなのは、イボ高の戦い方をコーチできなかったことにあった。

 また、彼の兄も学校の先輩でカットマン。練習試合もして貰った。驚いたことはその先輩の子供も卓球選手で、鎮西高校に入学。1年生から3年連続シングルス優勝だそうだ。ラケットはペンホルダー。長崎でそんな選手は今まで聞いたことがなかった。東京の大学には卓球ではなく、入試で合格したそうだ。素晴らしい。

 とにかく、いろいろあって面白かった。
 いろんな人に世話になった。ほんと感謝したい。

 今は2Lに写真をプリントし、じきに卓上カレンダーの見本がいただけるので、その写真をセットして送る準備をしている。

 突然、2泊3日から3泊4日に変更した。東京駅新幹線の自由席ホームでどうなることやら心配した。
 
 ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_7やその前のものも含み読み返してみると、「ギリギリセーフ」と「楽して面白いことはない」が印象的だった。そして、始め良ければ終わり良しと言うが、始めは最悪だった。しかし、最後はとても良かった。

 これって、旅だけではないよネ...
 もう少し頑張ってみよう。ファイト(^_^)/
 
 やっと、次ぎに進めるぞ_(._.)_

posted by トモ兄 at 12:25| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_7(おわりに)

  今回の帰崎は面白かったの一言に尽きる。つくづく思ったことがある、楽して面白いことはない。

 11日東京駅で、新幹線当日切符売り場で約1時間並んだ。それからお土産を購入。駅構内に入り自由席のホームに行くと長蛇の列。話を聞くと1本前の新幹線の列だった。ところが、その列の人たちはその新幹線に乗れなかった。僕の2メートル前で切れた。またその列は3方に別れていて、もうぐしゃぐしゃだった。乗れなかった人たちが、僕も含めて次の新幹線に乗車できた。また乗れない人たちも大勢いた。

 新幹線は朝の山手線状態で、僕は出入り口付近のデッキにいて、しかも足元には大きめの旅行バッグが置かれ、全く身動きができなかった。そんな状態が続き、やっと広島で座れた。約10分遅れで博多駅に到着。またギリギリセーフで特急かもめに乗車。すぐに電車は発車。長崎駅着は深夜の0時だった。

 始め良ければ終わり良しと言うが、始めは最悪だった。
 待てよ、ラッキーだとも言えないことはない。

 もしスケジュールのスタートが30分遅れていたら、東京駅で目の前の新幹線を見送る羽目になっていた。

 帰崎の目的だった、兄の見舞い。2カ所の墓参り。卓球部同窓生会。全て行った。ところが、にわか唐人屋敷・丸山の解説者になってしまったが、当初そんな計画はなかった。それだけでなく、思案橋・銅座・中島川も散策。稲佐山にも登った。ホテルで寝ている以外はほとんど、カメラを持って歩き回った。

新地中華街.jpg

 ホテルは食事を付けず、全て外で取った。
 1日目の夕食は義姉からご馳走になり、甥夫婦とも久しぶりに合い楽しかった。場所は新地中華街の江山楼で中華料理はほんと美味しかった。

ツル茶ん.jpg

 また、トルコライスは「ツル茶ん」でいただいた。「ツル茶ん」はなんと、創業大正14年(1925年)!九州最古の喫茶店と言われている。また、看板の右側に孫文先生故縁の地の碑があります。調べてみると...(孫文(1866〜1825)は、中国革命の父と呼ばれ、清朝を打倒、中華民国を建国しました。長崎を9回訪れていますが、決まって訪れたのが鈴木天眼(1867〜1926)の東洋日の出新聞社があったこの地でした。
 鈴木天眼は会津藩士の家に生まれ、東洋日の出新聞を創刊したほか、孫文の革命運動を支援しました。同新聞は明治35(1902)年に創刊、昭和9(1934)年まで発行されましたが、発行名義人は富田常雄の小説「姿三四郎」のモデル西郷四郎(1867〜1922)でした。)だそうです。

客船.jpg

 また、松が枝国際観光船ふ頭に停泊中の大型観光船も撮影。調べてみると、コスタ・セレーナ(イタリア)で、前港は上海、次港はウラジオストク。10月のクルーズ客船入港状況は23船。これもまた長崎ならではでしょうか。僕が言うのもなんですが、あまりにも長崎は見どころが多すぎ(^_^)

 とにかくよく歩いた、長崎出身者のにわか解説。
 つづく...

 
posted by トモ兄 at 10:38| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月17日

ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_6(長崎丸山)

 さて、長崎丸山ってどんなとこ?

丸山看板.jpg

 丸山は寛永19年(1642年)江戸幕府の命を受け、長崎市内に散在していた遊女屋を1カ所に集めたことに始まります。丸山は江戸の吉原、京の島原とともに、日本三大遊郭といわれ、長崎丸山には他の2カ所にない特徴がありました。

唐人部屋遊女遊興図.jpg

川原慶賀「唐蘭館絵巻」より「唐人部屋遊女遊興図」/長崎歴史文化博物館蔵

 丸山の遊女は、唐人屋敷やオランダ屋敷(出島)への出入りが許され、異国人との交流があったこと。つまり、今でいう国際化でしょうか。また、当時、『江戸のきっぷに京都の器量、長崎の衣装』といわれたほど、長崎丸山遊女の衣装は華やいだものであったようです。

遊郭跡.jpg

 江戸の文学者井原西鶴が『日本永代蔵』に、「長崎に丸山といふところなくば、上方の金銀無事に帰宅すべし」こう記した。上方の商人達は、随分と丸山にお金を落として帰宅したようです。
 また、特に史跡料亭 花月 県指定史跡(昭和35年指定)は有名で、花月は寛永19年(1642)に開業した遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に、文政元年(1818)頃造られた茶屋。大正末年引田屋は廃業したが、花月の名称と庭園、建物は現在に継承され、昭和35年(1960)には長崎県の史跡に指定。全国的に珍しい史跡料亭となった。

花月_1.jpg

花月_2.jpg

 花月の歴史を物語る見どころも数多くある。坂本龍馬がつけたという刀痕が残る床柱がある「竜の間」。「長崎ぶらぶら節」で有名になった名妓・愛八直筆の歌本や写真、向井去来の俳句や頼山陽の書、坂本竜馬直筆の書などが展示してあります。各部屋から見渡せる元禄時代に造られた庭園も素晴らしいそうです。他にも勝海舟、岩崎弥太郎等が利用していて、幕末から明治初期の歴史ファンにとっては、たまらない所ではないでしょうか。


青柳_1.jpg

青柳_2.jpg

 また、料亭 青柳(長崎市都市景観賞受賞)は、丸山より一段高い場所の草地で、梅園天満宮の大祭時などには、芝居地や相撲興行地として使われていたため、興行師などが滞在する宿屋としてつくられたのが料亭杉本家。料亭 青柳の初代、山口貞雄が昭和二十三年に旧料亭杉本屋を購入。料亭を改修・再開し、今に至っています。昭和三十年からは平和祈念像建設のため彫刻家、北村西望翁が亡くなる前年まで毎年足を運んでいたそうです。

天満宮_1.jpg

天満宮_2.jpg

 花月の隣には梅園身代わり天満宮があり、

中の茶屋_1.jpg

中の茶屋_2.jpg

 天満宮を挟むように、奥側には中の茶屋(市指定史跡)があります。当時は内外の文人墨客などが訪れ、丸山を代表する茶屋(料亭)でした。昭和46年(1971年)建物が類焼し、庭園のみとなりましたが昭和51年(1976年)に建物が再建され、現在は長崎市清水崑展示館として公開されています。

福屋.jpg

 その近くには、福屋跡(日本西洋料理の店の先がけ)。

高島_1.jpg

高島_2.jpg
 
 また、高島秋帆旧宅(国定指定跡)もあります。

 長崎丸山(花街)の規模は、記録によると延宝時代(1673〜)には遊女屋敷74軒、遊女766人。全盛期の元禄時代(1688〜)には遊女は丸山・寄合町あわせて1,443人いたといわれ、昭和32年4月1日「売春防止法」が施行され、1年間の猶予措置の後閉鎖、丸山の320年が終わりました。

 ただし、現在も花街として歴史的景観を残し、それだけでなく、芸奴(芸者)の踊りなどを楽しむことができるそうです。

丸山本通り料亭.jpg

検番.jpg

 伝統的な花街は、芸奴を抱える「置屋」、場所を提供する「待合茶屋」、料理を提供する「料理屋」に、さらに芸奴を派遣を取り仕切る「検番」が存在するのが一般的ですが、長崎の場合は、場所も料理も提供する「料亭」と「検番」が今も存在しています。
 
 僕は丸山かいわい散策マップを見ながら、約3時間の丸山界隈を散策。写真も撮ったので、文章に沿って載せたいと思います。

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ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_5(長崎丸山)

 唐人屋敷に較べると、若干花街丸山には興味があった。ところが、高校生までしかいなかった僕にとって、福砂屋本店までが限界で、それ以上足は伸びなかった。今回もお土産を購入するために福砂屋本店へ立ち寄り、地方発送して貰うことにした。なので、身軽だし時間もあった。ちょっと迷ったが(思案したが)、思案橋を越え、思切橋を渡り切り、いざ丸山へ。

 なんて大袈裟なんでしょう。位置的に福砂屋本店はすでにその橋を越えているが、気持ちだけはそんな気分で。

 まずは長崎丸山の位置関係を
 手元に長崎丸山はなまちマップがあり、開くとB4、畳むとコンパクトなガキサイズになります。内容もコンパクトにまとめられていてとても便利です。表紙と中面のマップを載せさせて貰います。
丸山_1.jpg

丸山_2.jpg

 表紙の下部写真は、丸山本通り。この写真はモノクロ写真に着色したようです。(長崎手彩色絵葉書)

 はなまちマップを参考にしながら、さっそく散歩を開始。

思案橋.jpg

福砂屋_2.jpg

 「思案橋」(丸山にいこうかどうか思案)からスタート→福砂屋本店(思切橋と見返り柳)へ
 福砂屋本店のバックに金色に見えるビルが見えます。ここにもよう(和華蘭)分からんが。また、電信柱があるところに、「思切橋」(思い切って丸山へ)の欄干の跡があり、よく見ると柳があります。この柳を「見返り柳」といい、丸山からの帰り道、丸山への未練を断ち切れず振り返っていたことから、名付けられたそうです。

福砂屋_3.jpg

 余計な話ですが、福砂屋本店内にガラス器コレクションが展示してあるスペースがあります。メモ程度のスナップを数点撮り始めると、そう言えばと、昔々のことを思い出しました。優勝カップのカタログを制作していたころ、D通のカメラ部が早崎スタジオを紹介し、僕がADでデザインし、撮影に立ち会っていました。その時のD通カメラ部の担当者(確か部長だった)が、福砂屋本店のガラス器コレクションを撮影していた。何だがその撮影をライフワークのような感じで話していたことを思い出しました。福砂屋は有名なカステラメーカーですが、まさかD通が関わっているとは。

丸山交番.jpg

 さて、この異国情緒溢れる建物は何?お土産屋さん?実は現在の花街丸山の入り口付近にある、丸山町交番です。
 
 つづく...

ラベル:長崎丸山
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2019年10月16日

ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_4(唐人屋敷)

 帰崎の目的は兄のお見舞い。しかし、台風を避けるために1日早めに出発し、当初の2泊3日が3泊4日になった。なので、こんな時間はなかなか取れないので、これまで行ったことがない所を選び、2日間で徒歩は約5万歩。しかも平坦な道ではなく、急勾配な坂や階段を上り下りした。

 ホテルのロビーに、折りたたみ式のリーフレットで、唐人屋敷跡探訪マップと長崎丸山はなまちマップがあり、その2箇所の入り口は分かるが、その先は未知の世界。天気もいいし時間もあるし。折角なので、その先を探訪することにした。

 まずは肥前長崎地図(長崎歴史文化博物館所蔵)を見ながら位置関係を知る。

肥前長崎地図.jpg


 最初は唐人屋敷から歩き始める。

 唐人(中国人)屋敷とは、江戸時代に入るとポルトガル貿易とともに中国貿易が盛んになってきて、寛永11年(1635年)には、唐船の入港が長崎に限定された。貿易で長崎に来航した中国人たちは、最初は長崎市中の馴染みの家に泊まっていたが、唐船来航の急増に対応し、中国貿易を管理するため、元禄2年(1689年)に中国人たちが滞在できる唐人屋敷を現在の館内に完成させた。また、元禄15年(1702年)に土蔵所有の町人39人によって海を埋め立てて「新地蔵」(現在の新地中華街)が造られ、唐船の荷物を収納するようになった。ここから、荷物が運び込まれ、積み出された。
 それによって、中国より来航した荷物は新地蔵へ、商人や船員は唐人屋敷へというスタイルができたようだ。

 また、唐人屋敷の広さは、約9,4000坪で、周囲は練壁で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地も確保し、竹垣で囲った。

空堀_1.jpg 空堀_2.jpg

空堀_3.jpg


 唐人屋敷の入り口は門が2つあり、大門と二ノ門。二ノ門の内部には役人であってもむやみに入ることは許されなかった。また唐人屋敷への日本人の出入りは厳重に監視されていたが、日本人であっても、遊女は許されていたようだ。遊女の三味線と唐人の胡弓の合奏も見られた。内部には2階建ての長屋が約20棟建地並び、一度に2,000人前後の滞在ができた。2階には船主や会計などの身分の高い人が住み、1階は大部屋で船員が滞在した。

 唐人屋敷は、天明4年(1784年)の大火災により、中国人が自分たちで建築することを許され、中国街のような独特の景観に変わり、安政6年(1859年)開国後は、だんだん唐人屋敷は廃屋化し、多くの中国人は新地や大浦の外国人居留地に住むようになった。明治3年(1871年)に再び大火災があり、建物等の大半は消失。現在の唐人屋敷に残るお堂は、その後改修や復元されたものだ。

 まずは、唐人屋敷象徴門(大門)から。緩やかな坂道になっていて、ここから未知の世界へ。唐人屋敷地跡探訪マップに従ってお堂を目指す。

大門.jpg


 大門の先の道を左へ上り、ぐるっと時計回りで右の道へ戻ってくる。その道なりで、1、福建会館 2.観音堂 3.天后堂 4.土神堂がある。

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ラベル:唐人屋敷
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ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_3

 孔子廟から5分も歩けば中華料理 四海樓(しかいろう)に着く。ここで「ちゃんぽん」を食べようと思った。「ちゃんぽん」とは、もともと中華料理店『四海樓』の創業者がお腹をすかせた中国人留学生のために作っていたのが、あまりのおいしさで評判を呼び、たちまち長崎を代表する麺料理になったという味な歴史をもつ。ところが、丁度休憩時間で17:00から営業を始める。

 それまで待てないので、大浦天主堂に行くことにした。四海樓(しかいろう)から5分も歩けば着く。何回も見ているので、大浦天主堂の左側の道を初めて歩くことにした。1分もしないうちにこんな案合板があった。これまた和華蘭のゾーンとなる。こんな場所が、長崎には至る所にあるのではないだろうか。前回は和華蘭を言葉の意味で捉えたが、和華蘭はもっと広い意味で長崎独特の文化とも捉えられている。

 まずは案内板の写真を

祈りの三角ゾーン看板.jpg


 ここを地元では「祈りの三角ゾーン」とも呼ばれている。ほんとに?実は僕は大浦生まれで地元なのだ。この「祈りの三角ゾーン」を初めて知り、ビックリ。ほんとに長崎出身者の長崎観光になった。振り返ると確かに。


祈りの三角ゾーン.jpg


 左に大浦諏訪神社(神様)、真ん中に大浦天主堂(イエス様)、右に妙行寺(仏様)。全国的にも珍しい長崎ならではの不思議な空間だそうだ。

 それから、手前への方へ歩き始め、左に坂道があり降りると、帰崎顛末記_2の親戚の子の話のスタート地点の、川(のよう入り江)を挟んだ向かい側の場所にいた。まさか、こんな所に大浦天主堂へ行く裏道があるとは初めて知った。やはり初めての道、小さな路地、裏道を歩いたりすると、意外な発見があったりする。
 昔旅行のキャンペーンで「Discover Japan=日本の再発見)があった。ネガティブには自分自身を非日常の空間に置きながら、実は自分の再発見でもあったりする旅行のキャンペーン。
 正にそんなことを、長崎出身者でありながら知らない道を歩くとことで実感した。


 この日は長崎最終日で、9時にホテルをチェックアウト。
 まず、出島を見学。橋を渡ると鎖国時代へタイムトリップ。

出島_1.jpg 出島_2.jpg

出島_4.jpg 出島_3.jpg


 それから、稲佐山に向かいロープーウェイで山頂に登った。ここからの風景は360°の大パノラマ。素晴らしいの一言。ちなみに稲佐山は標高333m。東京タワーと同じ高さだ。

稲佐山_2.jpg 稲佐山_1.jpg

稲佐山_3.jpg 稲佐山_4.jpg

稲佐山_5.jpg 稲佐山_6.jpg



 長崎駅で姉と落ち合い、墓参り。何十年ぶりだろうか、それすら思い出せない。姉と昔話をして長崎駅で別れた。帰りは遅い航空チケットを取っていたので、最初の話に戻るが、親戚のこの家を訪ねた。ループのような散歩を何度か繰り返した。

 ちょっと脳天気な話とタイトルを付けたのは、12日出発だと飛行機も新幹線も運休。なので早割の切符をキャンセル。当日の新幹線自由席で11日出発することにした。ギリギリで新幹線に乗車できた。長崎到着時間は10分遅れで、深夜0時を回っていた。1日目は前日ネットで予約したカプセルホテル泊。
 長崎に到着してもテレビで、台風の被害状況やラグビーは見ていた。またかみさんにも連絡を取っていた。もうたびたびは帰れないと分かっている。長崎は天気がよかったのでほんとよく歩いた。卓球部の同窓生とも飲みニケーション。食事も中華料理とトルコライスも堪能した。またブランド化を計画しているようだった長崎ミルクセーキも味わった。

 本州では最悪の大型台風で、とんでもないことになっていることは把握していたが、ちょっと脳天気だと思いながら、このブログを書いている。

 東京羽田は雨が降っていた。自宅に到着したのは深夜の0時。3泊4日の旅は無事終了した。

posted by トモ兄 at 11:17| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月15日

ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_2

 実は2回も同じ道を散歩した。理由は会いたい親戚の子がいたからだ。しかし、そこには住んでいなかった。たまたまだったが、おばあさんが通りがかって話をすると、その親戚の子を知っていることが分かり尋ねると、事情が大雑把だが分かった。
 また僕が生まれ育った家が目と鼻の先にあった。生まれ育った所にはさほど興味がない。しかしここのロケーションは今から考えるとかなり面白い。当時(小学校2〜3年生まで下町の長屋に住んでいた)何の不思議もなく当たり前だった。

オランザ坂.jpg

オランダ坂通り

東山手洋風住宅街.jpg

東山手洋風住宅群

教会.jpg

教会

銭湯.jpg

銭湯

孔子廟.jpg

孔子廟


 オランダ坂通りの写真で、右の石垣は誠孝院(じょうこういん)というお寺。ここにはお寺が経営していた保育所があった。また坂の中腹に洋館が見える。ここは東山手洋風住宅群で、今は見学ができて建物を利用した喫茶店や、古い長崎の写真を展示してある。また左へ進むと、左側に長崎教会がありその隣が銭湯。そして、斜向かいが孔子廟となる。僕がいた頃、孔子廟はお世辞にもきれいな建物ではなかった、今のような極彩色ではなく、単にグレーのほこりっぽい古い建物で、誰でも入ることができた。確か裏側は中国人のための学校があったように思った。おそらく華僑の人たちが通うっていたと思う。

 長崎には和華蘭という言葉がある。普通、「よう(和華蘭)分からん」と、いう使い方をする。つまり、様々な文化が(和=日本、華=中国、蘭=オランダ)普通に混じり合った状態のことで、特定できないような状態だろうか。つまり、判断できないようなときに「よう(和華蘭)分からん」という。ただし、本当に困り果てたときには、使わないような気がする。だから、軽い気持ちで、「わい(=あなた)はなんば(何を)いいよっとね(言いたいの)、よう(和華蘭)分からん」ばい。となる。

 ※訂正
 和唐蘭→和華蘭でした。訂正します。

 そんな面白いロケーションが、すぐ近くにもあった。
 初めて、歩いてさらいて知った。
 つづく...


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