2019年10月20日

自己を更新する

 もう今日で長崎の話は最後にしよう。長崎つながりで止めどもなくつながっていく。この辺で断ち切ろう。
 で、なぜかふと思ったことは「自己を更新する」だった。

 久しぶりに、伊東静雄のサイトを覗いた。


 そんなに凝視めるな  伊東静雄

 そんなに凝視めるな わかい友 

 自然が与える暗示は

 いかにそれが光耀にみちてゐようとも

 凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ

 鳥の飛翔の跡を天空にさがすな

 夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな

 手にふるる野花はそれを摘み

 花とみづからをささへつつ歩みを運べ

 問ひはそのままに答えであり

 耐える痛みもすでにひとつの睡眠だ

 風がつたへる白い稜石の反射を わかい友

 そんなに永く凝視めるな

 われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち

 あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ


 
 この詩は何回読んでも難解だ。
 そこで、簡単な作文をしてみる。

 そんなに凝視めるな わかい友
 われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
 あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

 だったら、分かるような気がする。
 人生の味わいは、多様と変化にこそ醍醐味がある。
 そんな感じだろうか。

 しかし、伊東静雄という近づき難い深い井戸に
 こんこんと湧く冷たくて新鮮な水脈には
 まだまだ理解できない、深い味わいがありそうだ。

 帰崎し、お墓を2カ所お参りした。父と母のことを想った。
 そこで、珍しく死生観のことを考えた。

 もしかすると、そんなに凝視めるなの詩は、伊東静雄の死生観を詠ったものなのか。人は長くも短くも一所懸命生きたという。ところが自分のこととなると長く生きたいと願うが、伊東静雄という近づき難い深い井戸の底流には、運命への諦観と憂鬱が感じ取られる。詩人がそういう世界に独り住み、人生の儚さを自覚したときに、研ぎ澄まされた美しい哀歌が生まれるのか。

 さて、ぼくときたらまだまだなのだ。
 つまり、楽観なのだ。
 だから、自己を更新する。

posted by トモ兄 at 18:47| 東京 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする