2009年02月15日

出来心で他力本願なのだ!_2

 例えば、ある病院へ見舞いに行って、入院している友人に最近元気がないね。っていわれて、変にこころに沁みることがある。なんで病人に元気づけられるんだ。もしかすると、『パコと魔法の絵本』ってそんな映画かもしれない。実は、もっとも嫌っている他力本願が日常茶飯事の出来事で、教えられてきた自力本願は、意外とささやかな自分自身のための出来心なのかもしれない。

 まずは、宗教的にまった疎いが本願を考えてみると、現世でもしくは死後に救われることだ。前者は厳しい修行をすることによって、後者は有難い念仏をひたすら唱えることで極楽浄土を願う。前者が自力本願で現世で悟りを開くことだとする。後者が他力本願で死後に救われることを願うことだとする。しかし、他力本願は疑うことなく信じることで、既に現世で精神的に救済されているのでないかと思う。自力本願において修行の目的とはもちろん金儲けをすることでない。つまり、精神的に救われることだ。そうすると、自力も他力も現世で自分の中で起こる精神的現象なのだから、手法は違っていても、迷える僕たちも日常生活のなかで、宗教的体験を経験しているかもしれない。

 さて、一般的な意味とは、

 自力本願は、自分自身の努力によって願いを叶えること。
他力本願は、他者への依存度が高く成り行き任せ人任せ。
宗教的意味においては精神性で捉えたが、日常的意味においては社会的関係性の観点で捉えてみたい。
自他の積極性において、他力本願は意味的にもイメージ的にも劣っているように感じるが、ここで言いたいことは全く違う。
そうではなく、好意的な尊い施しだということなのだ。

 もしこの世に、一人で生まれ生きていたら他者が関係しないのだから、自力本願しかないのかもしれない。例えば、僕は自力で生まれてきたのか。僕は親を選ぶことはできるのか。また誰かの影響を受けないで成長できるのか。そう考えてみると個のもつ重要性よりも、社会的関係性をより重く受けとめなければと思う。

 最近少し疲れていた。それから停滞した。原因は自分にある。だから、解決するには自分を最も知る自力本願しかない。しかし、実際に解決ができたり元気づけてくれたのは他者であり、他力本願だった。

 自分自身の行動は、世の中がどうあれ誰に相談しようと、結局自分で決定している。しかし、社会的な関係に視野を広げると、提案できても個人的に解決や決定できることは少ない。また、他力本願は、他者への依存度が高いと前述したが、宗教的には、祈るという行為を伴うし、社会的には、依存関係から独立、相互依存へ成長する。つまり、他力本願は、何もないところからは生まれない。自分自身の何らかの行為があって、誰かから施され助けられている。そして、その好意的な行為は、いつも一方的に与えられるものでなく、お互いさまであって欲しい。また、感謝の気持を忘れてはならない。

 「50歳のアフィリエイト」ブログの場合、
50歳を応援することは、アクセスしてくれる人に対し、出来心で他力本願をいかにして多く発信することなのかもしれない。
少し書き足したが、何だかまだ中途半端な感じがする。
この出来心がよくないのか?しかし、このこころが継続するといいのかも。
posted by トモ兄 at 03:01| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック