2016年05月23日

先週の出来事から、2題


 今日はゆっくり起きた。
先ず行ったことは、右肩に湿布を貼った。五十肩はほぼ治りかけていて、強引に痛みの箇所を変えるようなことをやっている。危なっかしいが、五十肩は二度目。一度目の改善後の試合では、まさかのシングルス優勝。今回は思いっきりスイングができることを楽しみたい。また、地元の練習会場がメンテナンス工事に入るので、チャンスがあればお隣の荒川区とか他の練習会場にも足を延ばしたいと考えている。

 昔々パソコン通信で卓球仲間と知り合って、オフ会(旧文京区総合体育館)で練習した。当時僕は30代で、他のメンバーはほぼ20代だった。ぼくはまだ若いのにトモ爺と呼ばれていた。それから30年経つ。つまり彼らも50代になっている。きっかけはどうあれ、彼らの今はどんな感じだろうか。練習しいつもそうしたように酒を飲んでみたい。そんなことを考えた。

 話しは変わる。

 カラヴァッジョの《エマオの晩餐》で、ライティングの方向を検討しているとき、果物籠の影に不自然な影があった。ネットで調べてみると、やはりその影は魚であった。

 分かったことを書きたい。
 カラヴァッジョのエマオの晩餐 (Cena in Emmaus)は、1596年or1601年頃の作で、141×196.2cm、油彩・画布 、ロンドン・ナショナル・ギャラリー

カ「エマオの晩餐」.jpg

 
 エマオの晩餐の果物籠を拡大したもの

カ「エマオの晩餐果物籠」.jpg

 果物籠右下の影は魚の尾ひれで、しかも置かれている位置が、危なっかしく不安定で、籠は半分テーブルからはみ出している。そのため、違和感なのか注意を引く。なぜだろう、この絵の主題ではない。

 先ずは、果物から。黒い葡萄は「死」を、薄い色の葡萄は「復活」を意味しているそうだ。
ざくろは「教会そのもののイメージ」や「イエス・キリスト」自身を。林檎は「罪」をそれぞれ象徴している。

 また、カラヴァッジョの絵の特徴のひとつに「バニタス」がある。果物は元気いいものと枯れているものが対になっていて、「人生の空しさの寓意」や「人間の死すべき定めの隠喩」で、虚栄のはかなさを喚起する意図をもっている。
 
 さて、問題の魚の影が、なぜ描かれたのか。

 その答えは、初期キリスト教の時代にまで遡る。キリスト教徒は迫害を受けていた時期があり、お互いが同じ信仰であることを伝える手段として、「魚」のマークを用いたそうだ。

 ギリシャ語で、「イエス キリスト 神の 子 救い主」の各単語の頭文字を順番に集めると「ΙΧΘΥΣ」(イクトゥス)となり、ギリシャ語で「魚」を意味する単語となる。「魚」はキリスト教徒の隠れたシンボルだった。

 《エマオの晩餐》の、登場人物の表情や仕草や隠されたシンボル。明暗法で描かれたドラマティックなシーンは、主題であるキリスト復活の最大の出来事の意味を伝えるために、信者の感情移入を助けることに役立つ。
 つまり、カトリック教会がカラヴァッジョにオーダーした宗教画である《エマオの晩餐》は、ラテン語を読めない人のための聖書であると捉えられ、様々な仕掛けと映画のような強烈なワンシーンは宗教心を喚起した。

 僕にとって、《エマオの晩餐》の感想を書くことの目的はよく分かっていない。僕はキリスト教徒でない。単純に美術が好きなだけだが、5月からのブログは、何となくだが書くテーマに関連性やつながりがあるようだ。ただし、今はそれが何なのか分からない。それとも気のせいか。

ラベル:関連性 つながり
posted by トモ兄 at 02:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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