2016年10月08日

「かるみ」とは、悲惨さを諦念の底に沈め、微笑みをもって人生観を転換


 先日ラジオを聴いていたら、面白い単位付けの話があった。冗談で日常のことを単位付けした。具体的な内容は忘れたが、笑えたことは覚えている。
 
 たとえば情報の単位は、バイト<キロ<メガ<テラ<ペタ<エクサ<ゼタ<ヨタ。
 僕も考えてみた。元気<疲れの単位は、ビン<フツ<バテ<ヘタとなる。

 昨日がバテバテだった。今日はもっと疲れそうなので3バテとなる。しかし元気な時もある。ビンビン、つまり2ビンとなる。3ビンになるとかえって困ることがあったりして。フツ2がもっともいいかもしれない。とにかくどんなときも面白がる人がいるもんだ。

 昨日2バテだった。昨日の出来事(スケジュール)を見ると7本印刷入稿。今日はラフ制作が重なっている。再来週にクライアント最大のイベントがあり、ピークは来週になる。他社のレギュラーも重なり、完全にオーバーワークになっているが、クライアント担当者の仕事量は僕の比ではない。そのくらいは容易に想像つく。しょうがない、ここは商売商売と笑い飛ばしの単位でグフグフ(愚夫)と笑う。

 しかし、仕事以外に何もできないかというと、
 そうでもなく
 流石に走れないが、マウンド舎人を散歩したり

 昨日は、「Fire TV Stick」で映画を観た。
 監督&脚本フォルカー・シュレンドルフの
 『シャトーブリアンからの手紙』

 1941年10月20日、ナチ占領下のフランスで1人のドイツ将校が暗殺される。ヒトラーは即座に、報復として、収容所のフランス人150名の銃殺を命令。その中に、いまも語り継がれ伝説となった、17歳の少年がいた。

 結局は、誰の良心もヒトラーの命令を背けなかった。
 「あなたは何に従う?命令の奴隷になるな」という
 メッセージが胸に突きささる。

 3バテの状態では、ちょっとキツかった。


 長谷川櫂さんの本で、2冊目を読み始めている。
 『奥の細道』をよむ

 第一章の「かるみ」の発見は、
僕にとってまさかだった。
これで最後まで読めそうだ。間違いなく面白そうだ。

 長谷川櫂さんよると、松尾芭蕉の『奥の細道』とは、「かるみ」の発見の旅だった。
 「かるみ」の反対は「おもみ」や「おもくれ」で、僕には持ち合わせてない感覚で、芭蕉の俳句は「おもみ」と風雅だった。だから、敬遠した。
 涙は流さないが、無知だったかも。

 「俳句−十七字の世界−」の最終レポートで、予行練習に選んだもう一つは

 鶯や餅に糞する縁の先 芭蕉

 現代人に理解することは難しいことがあるかも。
 それは、巡る巡る季節に、待ち遠しいとか名残惜しいという感覚はあるだろうか。例えば、月とか花でいうと分かりやすい。現代人(僕もそうだ)は、満月や満開を好み喜ぶ。しかし、インターネットや携帯がなかった昔のひとたちは、あと何回見られるだろうかと感じたようだ。季節により敏感で密着し暮らしていた。

 鶯は里山から人里になかなか降りてこないそうだが、春先になると庭先に姿を見せる。

 芭蕉は、待ち遠しかった春を発見し喜んだ。
 そこで、基底部である<鶯や餅に糞する>で、ショッキングな組み合わせで読み手を驚かせ考えさせる。この基底部の餅に糞する鶯は観察でなく想像であり、俳諧卑俗の美を探ったらしい。また、干渉部の縁の先は、背景や状況を提示した。

 いかにも俳諧的で、ユーモラスで面白い。
 元禄五年 四十九歳(杉風宛真蹟書簡)
 これもまた、「かるみ」だろうか。

 若い頃、人生は幸福の宝物だと信じていた。ところが、長く生きてくると違うことに気付き始める。人生は初めから悲惨なものである。ところが、それを覚悟していれば、ときどき巡り巡ってくる幸福は光り輝く。悲惨さや哀しみはすでに諦念の底に沈め、人生に微笑みをもって受け止めれば、この世はどう見えてくるだろう。

 つまり、芭蕉が発見した「かるみ」とは、嘆きから笑いへの人生観の転換だった。そして、長く生きる宿命にある現代人にとって、「かるみ」はまたとない道標になることだろう。
 
posted by トモ兄 at 15:14| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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