2017年09月18日

夏読書_レンブラント_1

 レンブラントの祖先は、早い時期からレディン(オランダのアムステルダムの近く)に拠点を構えていた。裕福な一家で、ライン川沿いに水車を所有し、粉屋を営み生計を立てていたようだ。父(1567/68-1630)は、製粉業を営んでいて、母(1568-1640)となる人とは、1589年に結婚。多くの子供に恵まれ、レンブラントは下から2番目に生まれた。後にオランダを代表する画家となる。

 『レディン市誌』に、レンブラントの記述が残っている。

 ヤン・ヤンスゾーン・オルレルス(1570-1646)はレディン市長を務めた人で、レディン市出身の著名人の伝記を書いた。『レディン市誌』初版は1614年に刊行され、同書の改訂版がつくられた。その時に新たに加えられたのが、レンブラントの短い伝記だった。

 レンブラント・ファン・レイン
ハルメン・ヘリッツゾーン・ファン・レインとネールチェン・ウィレムソドホテル・ファン・ザイトブルークの息子。
1606年7月15日レディン市生まれ
(『レディン市誌』第二版 1641年)

 内容は
1.両親はラテン語を学ばせ、レディン大学に14歳で入学。
2.レンブラントの関心は、絵画・素描の芸術に向いていた。
3.そのため両親は、地元レディンの画家のもとで絵画芸術の
 基礎を約3年間学ばせた。
4.その後、アムステルダムの著名な画家である、
 ピーテル・ラストマン(1583-1633)の下で
 半年間研鑽を積む。
※ピーテル・ラストマンは、レンブラントの最初期の絵画様式
 形成に重要な役割を果たした。
 ラストマンは、当時第一級の「歴史画家」であった。
 彼の特徴は、物語叙述の綿密な構成にある。
 また、その表現技法を支えたのが、
 彼がイタリアで学んだ経験に基づく。
5.レディンに戻り画家の道を歩み始める。
6.レンブラントは、素晴らしい才能を示す。
7.多くの注文を獲得したため、1630年ごろには
 アムステルダムに拠点を移した。

 カラヴァッジョの表現技法である明暗法が、レンブラントにどんな経路をたどり影響を及ぼしたのか。という最初の疑問は、ラストマンとユトレヒト・カラヴァッジェンスキーからの影響のようだ。

 ラストマンは1603-1606年頃までのイタリアのローマ・ヴェネツィアでの滞在で、イタリアの美術や画家たちからの影響を受けた。ラストマンが学んだことは、当時ローマで最も強い影響力を誇っていた、カラヴァッジョによる明暗表現やエルスハイマーの色彩の明るさや質感表現だった。
 レンブラントは、ラストマンの新たな様式の上に、さらなる革新性を展開した。

 また、カラヴァッジョに強い影響を受けた画家は「カラヴァッジェンスキー」と呼ばれた。その中でも最も重要な存在が、イタリア留学していたオランダ人画家たちで、彼らは、ユトレヒト出身者が多かったため「ユトレヒト・カラヴァッジェンスキー」と呼ばれ、カラヴァッジョから吸収した明暗表現で絵画を制作し、オランダでも強い影響力を持っていた。そして、レンブラントもその影響下にいた。

 レンブラントはこの「ユトレヒト・カラヴァッジェンスキー」の明暗表現を、さらにラディカルに用い、大胆な造形表現を行った。

 その典型的な例がレンブラントの《エマオの晩餐》『カラヴァッジョとレンブラントの違い』で、キリストの背後に超常的な強い光源が設定されているが、カラヴァッジョの《エマオの晩餐》に比べると、ソフトな光で物語の劇的な一瞬を捉えていて、キリストはほぼシルエットとして大胆な画面構成となっている。

 レンブラントは、イタリアで修業を積むことはなかったが、新鮮な芸術的創意工夫や独特の明暗表現によって、画家として高い評価を獲得した。 

 また、レンブラントの作品に、なぜ自画像が多いのかについてはどうだろう。レディンで活動していた時期は、肖像画をほとんど制作していない。ところが、アムステルダムに拠点を移してから、数多くの肖像画を制作するようになった。

 なぜだろう。

posted by トモ兄 at 01:34| 東京 ☔| Comment(0) | 文化・芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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