2017年12月24日

沈黙-サイレント-を観た_2

 いつものように、金曜日食事が終わってからプライム・ビデオで映画を観た。

 映画にはエンターテイメントとメッセージ性の強いものがある。『沈黙-サイレント-』は正にメッセージ性が強い映画で、原作は遠藤周作の小説『沈黙』。監督は「タクシードライバー」や「ヒューゴの不思議な発明」のマーティン・スコセッシ。テーマは、神はなぜ『沈黙』するのか。このテーマ(課題)を解くと、メッセージが浮かび上がる。

 しかし、ほぼ無宗教である僕にとって、メッセージを受け取るには難しいような気がした。

 まず、僕が観たいと思った理由は、マーティン・スコセッシの映画は必ず面白いはずだと思った。3年前に遠藤周作の「わたしが棄てた女」を原作とした「泣かないで」のミュージカルを観て感動し、『沈黙』も同様に弱い者の視点で描かれているのだろうか。
 長崎を舞台とした、17世紀初頭のキリシタン弾圧は、歴史の教科書では知っているが、宣教師たちや純粋に信仰を守り続けた人たちと、棄教した人たちとどんな関係にあり、また、なぜ禁教になったのか。

 この映画は4回観た。ところがその内、3回は仕事が終わって深夜に一人で観たせいか、途中で寝てしまった。4回目は、カミさんと、初めて最初から終わりまでしっかりと観た。『沈黙』はメッセージ性の強い物語で、理解できないところもあったが、何回も観てしまう魅力があった。だからといって、エンターテイメントとして、切り替えて観たわけではない。

 ほぼ無宗教であるが、以前に神を意識した数少ない経験があり、そのことを手がかりに考えてみよう。
 
 僕が二十歳後半の時、デザインスタジオに勤務していて、友人のコピーライターから、ユニセフの仕事で、厳しい暮らしをしている子供たちの貧困問題や健康問題を支援するための、募金活動用ポスターを頼まれた。当時社員だったのでアルバイトでデザイン制作を手伝った。その時にコピーライターは、正確に覚えていないが「神の手よりも、人の手を」というキャッチコピーを提案。僕はあまりにも分かりやすくて感動してしまった。しかしボツった。最終的には「明日、元気になぁれ」となった。

 「神の手よりも、人の手を」について、なぜ神は沈黙するのかという具体的な言葉は思いもつかなかったが、似たような考えだったかもしれない。つまり、子供たちが少なくなることはその国が滅亡する可能性も孕んでいる大問題で、解決するためにはコストが必要だが、「神の手」による奇跡的な問題の改善は望めない。また、このキャッチコピーの意味は誰もが理解できても、「神の手」と「人の手」を較べること自体に問題があったのだろう。このことは特定の宗教を指していないが、無宗教である僕が、「神の手」について考えざるを得なかった。

 「沈黙」とは、祈ることが神との静かな無言のコミュニケーションであり、人が苦しむ時、神も供に苦しんでいる。
 また、弱い者の視点としてキチジロウの存在が重要で、卑しく軽蔑に値する彼を通して、宣教師は全ての人の罪を背負い赦したキリストに出会った。そしてこの作品の背景として、約2000年の時の流れの中で培われてきたキリスト教が、日本では隠れキリスタンという特殊なコミュニティーとして、また、その教えも独自の信仰として奇跡的に受け継がれていた。

 さて、『沈黙』というテーマ(課題)を解くと、メッセージが浮かび上がると書いたがとても難しい。たとえば、厳しい弾圧に殉教か転ぶ(棄教)の究極の選択を迫られた宣教師や信者たちは。

 もし僕がこの時代に生きていたら、たとえ踏み絵を踏んでも神に赦されることを願い、神との「沈黙」の静かなコミュニケーションを続けることによって信仰を守り、生きる糧を得て生き続ける。キチジロウは僕の中に存在する。

posted by トモ兄 at 20:45| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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