2019年02月09日

待ち時間に、ナルキッソス_3

 つづきは...中断することにした。忙しくなった訳ではないが、混乱してきたので少し間を置くことにする。

 ナルキッソスが、水に映った自分(過去の無関心な自分)の姿だと気付かない自分(現在の恋する自分)が、水面から離れなくなるシーンを考えると、水に映った自分は正に虚像で、どんなに恋しくても手に入れることができない。それでも手に入れようとすれば、救いようがない悲劇が待っていて、精神分裂や破滅に向かう。

 また、そこに咲いた水仙は鎮静作用があるために、人の正常な感覚を麻痺させたり衰弱させると解釈されている。つまり、病的なナルシシズムの状態にある。(ただし、ナルシシズムは、健康的な状態と病的な状態に分類されるようだ)
 しかし、神の罰つとはいえ無関心から関心を示し失恋の罰を受けたのだから、神に赦されるという選択肢はなかったのか。
 この物語は、うぬぼれを戒める教訓として用いられるが、もし国のリーダーだったらと考えると、空恐ろしい。 
 
 また別の話もある。ナルキッソスは幼くして亡くなった双子の妹が大好きで、水面に映った自分を顔を妹の顔だと思い込み、その場を離れられなくなった。その光景を見ていた神々が同情して、ナルキッソスを水仙にした。

 この2つの物語で、神がとった行為は義憤と同情で随分違うなと思うが、いずれにしても悲劇だ。また、こういう悲劇が芸術家を刺激するのか、絵のテーマにもなっている。ギリシャ神話の神々の物語は、文化や宗教に様々な影響を及ぼしているらしい。

 唐突だが、川面に映った顔に、自分自身ではなく懐かしい父親の顔を発見した人がいた。『シッダルータ』ヘルマンヘッセのインドを舞台にした小説で、このシーンは最大の山場で、短いサイクルの輪廻を知るきっかけとなり解脱する。

 鏡がない時代に、何かに自分自身を映すことによって、見えない自分を見ようとする行為は、姿だけではなく「自分を知る」というテーマが含まれているようだ。いずれ誰もがこの問題に悩まされる。

 偶然だと思うが、『エゴン・シーレ』坂崎乙郎著で、なかなか先に進まない中、気になる内容があり引用する。

 “シーレが自画像の多くに思い切ってナルシスティックなジェスチャーをとらせたのは、よほど外貌に自信があったからに相違ない。それともう一つ。彼は父アドルフの理想像と恋に陥ち、このことは彼が自分の魂と恋に陥ちたことを物語るのだが、自己および他者を客観的に判断する基準を失う危険を冒していたことを証明していよう。”

 また、シーレはゴッホの後継者でナルシシストという文脈だけでは、僕自身の思考は偏る。たとえば、シーレは28歳で亡くなった。自殺かとすぐに思ってしまったが、年譜を見ると、1918年2月6日、グスタフ・クリムト死亡。同年10月28日、妊娠中の妻エディが、スペイン風邪により死亡。その3日後、10月31日、シーレ自身もこの疫病の犠牲となる。

 とにかく、読み進めていこう。これからどうなることやら...
 自分自身で意図的に選んでいないが、みんなのデジブック広場の『ナルキッソスへの思い』を見た。その流れでこんなことになった。『エゴン・シーレ』は4月の展覧会の自分なりの予習だった。そんなことは、他の展覧会でも同様に行った。gaccoでは、『心理学スパイラルアップー多角的な視点からの接近』を受講している。なんだかつながっているような...

 明日は、若冲だけじゃないぞ!-いま『奇想の系譜』を読み直すの講演会に行く。また、『エゴン・シーレ』の読書中に、2冊の実用書を読んだ。
 僕は読書家ではない。ほんと気まぐれは疲れる!

 いまから、仕事

posted by トモ兄 at 11:52| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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