2019年04月20日

1年の計は誕生日にあり

 誕生日とは私の1年間がスタートする最初の日。だから、1年の計は元旦にありと同様に、「1年の計は誕生日にあり」と考えた。

 さて、その誕生日はどうだったか?その顛末記。

 偶然だが、クライアントの東京でのイベント準備と重なり、レギュラーとイベント告知や広告制作がありとても忙しかった。クライアントの担当者は、当然だが忙しさは僕どころでない。なので、原稿入稿の待ち時間はいつもよりあった。

 その日は0時から2時まで仕事。仮眠を取り5時に起床。メールチェック。原稿は入っていなかった。仕方ない。

 ここから原稿入稿まで超暇な時間が始まる。じゃあということで、最後のディスカッションに投稿した。「分かりあえなくても尊重はできる」のスレッドがあり、「人と人は本当に分かり合えるのか」という難しいテーマ。たとえば、障害者と健常者、同性愛者と異性愛者、男と女は本当に理解しあうことができるのか。というような問いかけだ。投稿者は言語論の講義をベースに「分かりあえなくても尊重はできる」という結論のようだ。その投稿にいくつかのコメントが付き、最後のコメントの「障害は個性である」について僕も投稿した。
 (ディスカッションであるが、レポートのような長文が多かった。驚くことは、講義をベースに実際の経験の中で問題を発見し提起され議論がなされた。だから、ここでしか聞けないこともあり、とても勉強になった。)
 
 それから、別件で広告デザインのオーダーがあり、今度は超忙しくなった。しかしその合間で、「クリムト展 ウィーンと日本 1900」と「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」をオンラインチケットで前売り券を2人分購入。ブログも書いた。また、せっかくの誕生日の食事なので、在住区でもっとも美味しい炒飯の店を検索し探し出した。

 夕方、原稿入稿があり21時頃に印刷入稿が無事終了。信じられほどの開放感。もう時間が遅くなったので炒飯店は諦め、この時間まで待っていてくれたかみさんと、食事をとるためすぐ近くのお店へ出掛けた。お酒はビールと赤ワインを。もう頭が溶けそうだった。

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 その日のスケジュール表を見ると、11時間30分働いていた。道理でと思いながら、お店でゆっくりしていると携帯に連絡が。さっき印刷入稿した紙面に差し替え原稿が入った。仕方ない、事務所に戻り原稿を差し替えPDFをメールした。

 「1年の計は誕生日にあり」そんなもん、あったもんじゃなかった。もうバタバタだった。
 結局は「今年もファイト!」これが僕の1年の計なのだ。

 そして今朝、再度印刷入稿した。


◎◎◎◎様

  「障害は個性である」について考えたことがありました。その「個性」はパフォーマンスを最大化させ、輝ける場所を獲得できる。まずはそう考えました。

 10年前、テレビで偶然に50m平泳ぎの決勝戦を途中から観戦。流石に早いと思いました。それからすぐにショッキングなことが起きます。選手たちがプールから上がった瞬間、その驚きは今でも忘れられません。選手たちは障害を持っていた人たちだったのです。

 その選手たちに興味を持ち、ネットなどで調べ分かったことをブログにアップ。特に優勝した人の情報は多く発信されていて、実際に書かれていたことをまとめました。それが、陸ではよちよちだが、水の中では自由に泳ぎ最大のパフォーマンスを発揮できる。メタファーとして「ペンギン君のパフォーマンスの最大化と輝ける場所」でした。

 それから4年後、その選手のインタビュー記事を読むことになります。最初に感じたことは、理解が浅かったことです。

 4年前、理解するための大前提は、水の中が彼らの身体的制限を開放するでした。しかし、今はそう思っていません。

 たとえば、障害者はま真っ直ぐ泳ぐことがとても難しく、健常者のフォームは参考にならい。試行錯誤を重ね等身大のフォームつくった。また、競技である以上、早さを争うので、飛び込みからのスタートダッシュスタイルを編み出した。つまり、水の中は、身体的制限を開放するような生やさしい世界ではなかったのです。

 そこで、再度「障害は個性である」ということを考えました。人生を長い道程であるとたとえると、私は彼を瞬間的に横切ったに過ぎない。その一瞬の経験で理解することは無理がある。実際には2回横切ったのですが、最初の理解とは乖離する結果となった。しかし、決してダブルスタンダードではありません。 なぜ、パフォーマンスを最大化させることに役立ったのか、なぜ、輝ける場所を獲得できたのか。それは、「障害は個性でありプライド」であると考えます。

 私(健常者)が、障害者スポーツを理解しようとした場合、その人の立場になって考えることは難しく、視座は自分自身に置かざるを得ません。だから、そんなことは無駄だからおよしなさい、という人もいるかもしれない。しかし、理解しようと何らかのアクションを起こさない限り何も分からない。いかにも健常者の考え方でしょうか。確かに、言語は私たちをまやかし生きにくくさせるものだとか。この言葉をコノテーションと捉えると、すぐには思いつかないのですが、どんな深遠なる意味が隠されているのでしょうか。

 ◎◎◎◎様も仰ったように、言葉は何かを変えていける可能性がある希望だと私も信じています。そして、分かり合いたいというお互いの態度がなければ、相手を尊重することも難しいと思います。

私も、長々と横から失礼しました。
posted by トモ兄 at 13:35| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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