2019年05月04日

連休6日目、展覧会&ソプラノコンサート

 展覧会は、日本・オーストリア外交樹立150周年記念「ウィーン・モダン、クリムト、シーレ 世紀末への道」と小林沙羅・ソプラノコンサート「ウィーン音楽の夕べ」。

 
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 18時から、展覧会の関連イベントで「ウィーン音楽の夕べ」があるので、時間を合わせ14時頃に自宅を出発。15時頃に国立新美術館に着いた。

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 展覧会の見どころは、クリムト、シーレだけじゃない。ウィーンの至宝が大集結だそうだ。展覧会構成は4章構成で作品は400点。エゴン・シーレは22点だった。僕のお目当てはエゴン・シーレだったので、当てが外れてしまった。しかし、世紀末ウィーンを概観できた。展覧会は、18世紀の女帝マリア・テレジアの時代から19世紀末〜20世紀初頭のモダン・アート、モダン・デザインの黄金期まで、近代化(モダニズム)の過程を4章構成でたどる。

 女帝マリア・テレジア(1717年-1780年)の息子で、皇帝ヨーゼフ2世(1741年-1790年)は、啓蒙主義の熱烈な支持者で、宗教の容認、死刑や農奴制の廃止、病院や孤児院の建設など、行政や法律、経済、教育においてさまざまな改革を実行。ウィーンは、自由な精神をもつ知識人たちを魅了し、彼らの交流の場となることで、ヨーロッパ文化の中心地へと変貌を遂げていった。

 「ウィーン・モダン」の基盤になったのは、まずオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)の首都である、ウィーンが近代的首都へと変貌を遂げたことにある。
 近代都市への変貌は、1857年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1848年-1916年)が、都市を取り囲む城壁の取り壊しを命じ、その跡地に整備されたリンク通り(環状道路、リンクシュトラーセ)を開通させる。沿道には、帝国の要となる建築物が次々建設され、この通りを基点として閉塞的な中世都市は豊かな芸術を育む大都市へと変貌を遂げることになる。人口は50万にから220万人まで増加した。

 建築では、オットー・ヴァーグナーがウィーンの都市デザイン・プロジェクトを数多く提案した。計画のみに終わったものもあるが、今日のウィーンの街並みは、実現されたヴァーグナーの建築によって印象付けられた。
 また、絵画の分野では、1897年にグスタフ・クリムトに率いられた若い画家たちのグループが、オーストリア造形芸術家組合(ウィーン分離派)を結成。1903年には、工芸美術学校出身の芸術家たちを主要メンバーとして、ウィーン工房が設立された。

 世紀末ウィーンとは、19世紀末、オーストリア=ハンガリー帝国の首都である、ウィーンで展開された多様で驚くべき文化事象の総称であり、ウィーン分離派やウィーン工房の重要なパトロンはユダヤ人富裕層で、芸術家たちの実験的な精神や妥協のない創作が、この時代の傑作の数々を生み出した。

 ウィーン・モダン人物相関図
 
 本展は、世紀末ウィーンの文化を「近代化モダニズムへの過程」という視点から紐解く新しい試みの展覧会で、一部を除いては、1887年に「ウィーン市立歴史博物館」としてウィーン市の文化の中心地カールスプラッツに設立され、2003年に改められ通称「ウィーン・ミュージアム」の重要なコレクションだ。

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 また、「ウィーン音楽の夕べ」では、国立新美術館のロビーで、オペラ界を代表する若手ソプラノ歌手・小林沙羅さんが、本展覧会に関連作品が出品されている、シューベルト:野ばら、アベ・マリア、モーツァルト:ぶってよマゼット、ベートーヴェン:君を愛す、マーラー:誰がこの歌を作ったのか?、ヨハン・シュトラウス2世:侯爵様など、ウィーンゆかりの作曲家による歌曲をセレクトしたソプラノコンサートが開催された。
 ピアノ伴奏は河野紘子さんで、全世界25台限定の特別なグラウンドピアノが使用された。ピアノの屋根の内側に「アデーレ・ブロッホ=バウワーの肖像T」を忠実に再現したモデルで、まさにウィーンを代表する芸術作品でもある。

 感想は繰り返しにるが、お目当てはエゴン・シーレの作品は少なく、もっと多くの作品を見たかった。後日エゴン・シーレの図録を購入しようと思っている。やはり、ウィーン・モダン、オーストリア表現主義の画家の中でエゴン・シーレは特異で衝撃的だった。
 
posted by トモ兄 at 04:41| 東京 ☀| Comment(0) | 文化・芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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