2019年10月16日

ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_4(唐人屋敷)

 帰崎の目的は兄のお見舞い。しかし、台風を避けるために1日早めに出発し、当初の2泊3日が3泊4日になった。なので、こんな時間はなかなか取れないので、これまで行ったことがない所を選び、2日間で徒歩は約5万歩。しかも平坦な道ではなく、急勾配な坂や階段を上り下りした。

 ホテルのロビーに、折りたたみ式のリーフレットで、唐人屋敷跡探訪マップと長崎丸山はなまちマップがあり、その2箇所の入り口は分かるが、その先は未知の世界。天気もいいし時間もあるし。折角なので、その先を探訪することにした。

 まずは肥前長崎地図(長崎歴史文化博物館所蔵)を見ながら位置関係を知る。

肥前長崎地図.jpg


 最初は唐人屋敷から歩き始める。

 唐人(中国人)屋敷とは、江戸時代に入るとポルトガル貿易とともに中国貿易が盛んになってきて、寛永11年(1635年)には、唐船の入港が長崎に限定された。貿易で長崎に来航した中国人たちは、最初は長崎市中の馴染みの家に泊まっていたが、唐船来航の急増に対応し、中国貿易を管理するため、元禄2年(1689年)に中国人たちが滞在できる唐人屋敷を現在の館内に完成させた。また、元禄15年(1702年)に土蔵所有の町人39人によって海を埋め立てて「新地蔵」(現在の新地中華街)が造られ、唐船の荷物を収納するようになった。ここから、荷物が運び込まれ、積み出された。
 それによって、中国より来航した荷物は新地蔵へ、商人や船員は唐人屋敷へというスタイルができたようだ。

 また、唐人屋敷の広さは、約9,4000坪で、周囲は練壁で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地も確保し、竹垣で囲った。

空堀_1.jpg 空堀_2.jpg

空堀_3.jpg


 唐人屋敷の入り口は門が2つあり、大門と二ノ門。二ノ門の内部には役人であってもむやみに入ることは許されなかった。また唐人屋敷への日本人の出入りは厳重に監視されていたが、日本人であっても、遊女は許されていたようだ。遊女の三味線と唐人の胡弓の合奏も見られた。内部には2階建ての長屋が約20棟建地並び、一度に2,000人前後の滞在ができた。2階には船主や会計などの身分の高い人が住み、1階は大部屋で船員が滞在した。

 唐人屋敷は、天明4年(1784年)の大火災により、中国人が自分たちで建築することを許され、中国街のような独特の景観に変わり、安政6年(1859年)開国後は、だんだん唐人屋敷は廃屋化し、多くの中国人は新地や大浦の外国人居留地に住むようになった。明治3年(1871年)に再び大火災があり、建物等の大半は消失。現在の唐人屋敷に残るお堂は、その後改修や復元されたものだ。

 まずは、唐人屋敷象徴門(大門)から。緩やかな坂道になっていて、ここから未知の世界へ。唐人屋敷地跡探訪マップに従ってお堂を目指す。

大門.jpg


 大門の先の道を左へ上り、ぐるっと時計回りで右の道へ戻ってくる。その道なりで、1、福建会館 2.観音堂 3.天后堂 4.土神堂がある。



1、福建会館天后堂(ふっけんかいかん てんこうどう)市指定有形文化財   
 福建会館の前身は江戸後期に遡るが、明治元年(1868)『八閩(はちびん)会館』として正式に発足した。その後、明治30年(1897)に至り建物を全面的に改築し、福建会館と改称した。
 会館本館(会議所)の建物は原爆により倒壊したため、現存するのは正門と天后堂などである。
 正門は、三間三戸の薬医門(やくいもん)形式で、中国風の要素も若干含んでいるが、組物(くみもの)の形式や軒反りの様子、絵様(えよう)の細部など、主要部は和様の造りとなっている。これに対し、外壁煉瓦造の天后堂は架構法(かこうほう)なども純正な中国式を基調とし、一部木鼻(きばな)や欄間(らんま)は、和様に従っている。このように、様式的には和・中の併存であり、中国との交流の歴史が凝縮された建造物であるといえる。
 また、中国から船で渡って来る中国人たちの航海安全の神・媽祖が祀られている。

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2.観音堂(かんのんどう)市指定史跡
 瓢箪池の奥の石の刻字で 「 元文2年(1737)… 」 に福建省出身の唐船主によって建立されたと思われる。天明4年(1784)に焼失し、1787年(天明7)に再建され、その後、数回の改修があった。 現存する建物は、大正6年(1917)に、華商の鄭永超が改築したもの。基壇には 「 合端 ( あいば ) 積み 」 の石積技法が見られ、沖縄的な要素もうかがえる。
 本堂には観世音菩薩と関帝が祀られており、観世音菩薩は中国民衆に、慈悲深い神として慕われている菩薩である。
 関帝は商売繁盛の神さまとして信仰の対象となっている。
 入口のアーチ型石門は唐人屋敷時代のものと言われている。

観音堂_1.jpg 観音堂_2.jpg

観音堂_3.jpg 観音堂_4.jpg


3.天后堂(てんこうどう)市指定史跡
 元文元年(1736年)、南京地方の人々が航海安全を祈願し、航海安全の女神である天后聖母を祀って建立したものと言われている。その後、寛政2年(1790年)に修復され、現在の建物は、明治39年に全国の華僑の方々の寄付で建てられたもの。
 関帝は商売繁盛の神さまとして信仰の対象となっている。

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天后堂_3.jpg 天后堂_4.jpg


天后堂から土神堂へ続く300年の歴史の道(街並み・銭湯)
 ちょっと脳天気な話 帰崎顛末記_2の銭湯とは、壁に施されている模様はいかにも中国式を基調とし、和風と違った唐(中国)の雰囲気を感じます。

唐人屋敷街並み.jpg


4. 土神堂( どじんどう )市指定史跡
 土神堂は、元禄4年(1691年)土神を祀る石殿を建立したいという唐船の船主らの願いが許され建立された。天明4年(1784年)の大火で焼失したが、興福寺などの唐三か寺や華僑たちによって復旧され、その後も数度にわたり華僑たちによって改修されたが、昭和25年(1950年)老朽化および原爆の被害を受け石殿だけを残し解体される。現在の建物は、昭和52年(1977年)に長崎市が復元工事した土神堂である。
 「土神」とは「福徳正神」ともいわれ、土地や家を守り、豊作の神様として中国では古くから広く民衆の間で信仰されてきた。

土神堂_1.jpg 土神堂_2.jpg

土神堂_3.jpg



 今回初めて知ったのですが、唐人屋敷は出島と同等の影響力や価値を持つ貴重な歴史遺産だったことが分かった。やはり1歩踏み込まないと分からないことがある。
 例えば、出島は西欧文化・学術の交流拠点として、日本の近代史に大きく影響を与えた。しかし、唐人屋敷も大きく日本に影響を与えたことが分かった。漢詩文・絵画・書など唐人屋敷の唐人(中国人)に学ぶために多くの遊学者が長崎を訪れた。その数は、出島を目指した人々よりも多かった。また、中国貿易は、オランダ貿易よりも量・利益ともに上回っていて、長崎の景気にも大きく左右した。また、長崎の独自の文化にも寄与している。長崎ランタンフェスティバルには、航海安全の神・媽祖行列が再現されている。おくんちの龍踊りは、唐人屋敷で上元(正月15日)に行われていた祈福の祭り。長崎の郷土料理になっている卓袱料理。つまり中国文化に影響を受け誕生した。他にも、お盆の精霊流しは、中国の「彩舟(さいしゅう)流し」などなど。

 長崎にいたころは、唐人屋敷は全く興味がなかった。仲間ともそんな話をしたこともなかった。外山幹夫著『長崎 歴史の旅』もしくは長崎外史?多分このタイトルだと思ったが、読んだときにも想像は膨らまなかった。しかし、実際に動いてみると流石に刺激された。最初はどうなることやら思っていたが、偶然を見方に付け有意義な旅になった。(ディスカバー長崎、ディスカバー私)

 次ぎに、長崎丸山はなまちへ行く。


ラベル:唐人屋敷
posted by トモ兄 at 18:32| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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