2021年12月05日

あっという間の帰崎(5泊6日の旅)_番外編

まずはこの写真から。
『フルベッキ博士寓居の地』(長崎フルベッキ研究会)碑の近くに、『遠山左衛門尉景晋公ご参拝』の碑がある。確か江戸北町、南町奉行を歴任した遠山遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)の父親は長崎奉行をつとめていた。
遠山左衛門尉景晋って、もしかすると遠山の金さんの父親?

遠山左衛門.jpg

大正解だった。

僕が初めて遠山左衛門尉景晋を知ったのはたまたまだった。一時期、長崎の諫早が生んだ抒情詩人伊東静雄さんを調べていたことがあり、また偶然だが、著名なテレビの脚本家である市川森一さんが伊東静雄さんと同郷の出身だったことを知った。
うろ覚えだが、そんな繋がりで伊東静雄さんのことを何か書いていないだろうかと調べた。その時に、市川森一さんのインタビュー記事を読んで、長崎奉行だった遠山 景晋(とおやま かげみち)は、江戸町奉行の遠山 景元(とおやま かげもと・遠山の金さん)の父親であることを知った。

長崎奉行の一つの仕事は密貿易を取り締まること。しかし、厳しく取り締まっても見逃してしまったケースがあったらしく、そのことを江戸幕府にばれないようにすることもあった。その辺りを市川森一さんは調べていたらしく、面白い話ができそうだということで進めていた。しかし、残念だったが完成には至らなかった。

長崎奉行についての資料も読んでみた。
長崎市歴史文化基本構想の資料一部を掲載する。

●長崎奉行と長崎代官
 天正16年(1588)に長崎は豊臣秀吉の直轄領となり、文禄元年(1592)より奉行が置かれ、徳川幕府 開幕後も引き継がれ、幕末にいたった。長崎奉行の役割は、長崎の市政全般の他、キリシタン対策、異国船警備の指揮、貿易統制の諸政策の監督と実施が主なものであった。
 長崎奉行所は、当初、本博多町(万才町)に置かれたが、寛永 10 年(1633)長崎奉行が2人制になったため、敷地を2つに分け、東役所と西役所とした。寛文の大火の後は、火災を考慮して分散させ、長崎港や出島の管理に重要な場所となる現在長崎県庁が位置する場所に西役所を、諏訪神社が鎮座する諏訪杜を背負う立山に立山役所を配した。立山役所跡に建つ長崎歴史文化博物館には、発掘調査結果や江戸時代の絵図等に基づき、立山役所が復元展示されている。

 長崎代官は、長崎奉行の支配であった長崎80町以外の直轄領である、長崎村、浦上山里村、浦上淵村と、長崎周辺の茂木村、野母村、高浜村、川原村、樺島村、日見村、古賀村を管轄した。代官屋敷 は、サント・ドミンゴ教会のあった勝山町(現在の桜町小学校)に置かれ、発掘調査により建物跡や井戸 などの遺構が発見されている。
出典:長崎市歴史文化基本構想(siryou.pdf)
資 料 編 - 長崎市
テーマ C-2 近世都市長崎とその伝統

また、現在はお寺がない大徳寺公園(長崎名勝図絵の風景 17 大 徳 寺)となっているが、大徳寺は真言宗の寺で、唐船から多額の寄付が続けられたが、長崎貿易が不振になってからは寄付がなくなり、寺の本堂や鐘楼なども次々と売却、明治初期に廃寺となる。その後、梅香崎天満宮となったらしい。
出典:みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"
長崎名勝図絵の風景  17  大 徳 寺

大徳寺公園から.jpeg

現在の大徳寺公園から見下ろした風景

たまたまが多くなってしまったが、階段を上らなく真っ直ぐホテルに帰っていれば、この出来事はなかった。この階段はまるでタイムマシンのようで、様々な人と出会い、そして最後には自分自身とも出会ったような気がする。これが旅の醍醐味だろうか。
あっという間の帰崎(5泊6日の旅)は、この辺りで終わりたい。

最後に、伊東静雄さんの詩の結びの一節を


 われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち

 あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ


感謝_(._.)_


posted by トモ兄 at 14:58| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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